「転校生」はつらい?転校生で辛い体験をしたわたしが今思うこと。

ちぇこです。

2018年がスタートして数週間。あと2~3カ月もすれば春がやってきて、進学・進級のシーズン。

別れや新しい出会いがやってきますね。

この節目で、「転校」を体験する人も多いのではないでしょうか。

 

実は私もかつては「転校生」でした。

今回は、転校生としていろいろと辛い思いをしてきた私が今思うことを、書いていきたいと思います。

ちょっと暗~い話になりますが、最後は明るくなるので安心してください(笑)。

 

転校生たるもの、自分を殺すべし

私はかつて、父の仕事の関係で2~3年に1度引っ越しがあり、幼稚園時代から高校卒業まで、のべ7校で″転校生″をやってきました。

遠い記憶を探ってみても、はっきり覚えています。

それは、もう出来上がっているグループの中に、いつもぽんと放り込まれる私。

「転校生」として紹介される私です。

 

子供というのは無邪気で、残酷です。

だから、別に強制されたわけでもないのに、私は私なりに転校生としての処世術を身に付けました。

それは、「まずは、自分を殺すこと」。

 

書いててちょっと怖いのですが(笑)

その土地その土地のエネルギーってやっぱりあって、住む人の雰囲気も全く変わります。

私は、生きていくための戦略として無意識に「どこへいっても、嫌われてはならない」という思いがあったので、とにかく転校してしばらくは自分を殺して、周囲の様子を探ることから始めていました。

 

もちろんそんなことをしなくても、らく~に上手に転校生をしている子もたくさんいました。

でも私はそんな器用なタイプじゃなかった。

だからいつも、まずは周囲を伺って、誰がこのクラスのボスなのか、または影のリーダーなのか、自然とチェックしていたんですね。

 

そうは言ってもやっぱり簡単にはいかなくて随分苦労しました。

幼稚園や小1の時はもうすでにできている仲良しグループに入れなくて一人で寂しい思いをしたし、

小4で転校した時にはある女の子に呼び出されて「ちぇこさんのこと、クラスのみんな嫌いだって言ってるよ!」と言われて、それはそれは打ちひしがれたり。

(実際はその子がまわりの子とうまくいっていなくて、当てつけだったということが後でわかったのですが。)

 

転校して数カ月はいつも、夜に布団の中で声を殺して泣いていました。

あの布団の冷たくざらざらした感触は今でも覚えていて、胸がきゅっとなります。

親には言えなかった。絶対に。

私は明るく、楽しくやっていると思っていてほしかった。

長女だから甘え下手というのもあったのでしょうし、プライドが高かったので(これは今も。笑)”子供の世界のことに大人は入ってきてほしくない”という自尊心もあったのだと思います。

 

転校生は、子供の世界において“異質”なものである

小学校高学年の頃に過ごした土地はすごく排他的で保守的な土地柄だったこともあり、とにかく私は悪目立ちしていました。

担任の先生には目をつけられていたし、実際私もけっこうなガキ大将でした。

ガキ大将がやれていたのはその環境に慣れてきたからでもあるのですが、そこでまた転校が決まります。

 

中学生というまたとても難しい年ごろでの転校。

新しい土地は、今は本当に大好きで大好きで第2のふるさとだと思っている場所ですが、転校当初は本当に辛かった。

たまたま転校した地域は今までにないくらいものすごく田舎で、県外からの転校生を初めて迎えるかのような学校だったのです。

 

だから、とにかく私はこれまた悪目立ちしてしまいました。

何が問題だったかというと、今まで出逢ったことのない「不良グループ」が学校内で絶大な権力を誇っていたこと。

 

教師をなめきっていて、授業中も教師への暴言が酷く、とてもじゃないけど授業になっていない授業があったことは衝撃でした。

そしてあろうことか、私はこの不良グループに目をつけられてしまったのです。

いじめのような陰湿なものではなかったものの、いわゆる「からかい」の標的にされました。

 

・私とすれ違うとなぜかいつもニヤニヤされる。

・たまり場となっている廊下を通ろうとすると「ちぇこちゃんが来た!」といってみんなで私の一挙手一投足を見つめる。

・中には足を出してきて私をひっかけようとする不良も。

・不良数人が授業中に私を取り囲むように机を置いて座り、「●●って言葉知ってる?(放送禁止用語の下ネタの数々)」と聞いてきて、私の反応を楽しんでいた。

 

まーそれはそれは、辛かった。

学校が苦痛だったので、部活にも入らず毎日すぐに帰宅していました。それでもたまに不良グループに見つかることもあって、毎日がサバイバルのような下校でした。

父がたまに早上がりで帰りがけに車で迎えに来てくれたのですが、

泣きながら帰っているところを見られたくなくて必死に平静を装っていたことも1度や2度ではありません。

 

当時は、どうしたらいいかわからなくて、ただひたすらに、毎日神様に向けて手紙を書いていました。

「明日は不良たちに話しかけられませんように…どうかお願いします…」

と。

 

存在するかもわからない神様に、文字通り「神頼み」するしかできなかった私。

「嫌だ」「やめてくれ」がどうしても面と向かって不良たちに言えなかった。

私が何か変だから、この土地の人間じゃないから、劣っているから、不細工だから、こんなふうに目を付けられるんだ。

そう信じ切っていた、絶対的に弱い私がそこにはいました。

 

転校生の辛さの原因は、服従するしかない弱さ

そもそも、転校生の辛さの原因は、この理不尽な立場の弱さにあると私は思っています。

子供という存在は、親に衣・食・住を依存しないと生きていけません。

収入を得られないのだから、自分ひとりでは家を借りることも、食事することもできません。

だからこそ、子供は親の引っ越しを拒否することはできません。親に守ってもらっている身分である以上、ある意味服従するしかないのです。

 

では、だからと言って、本当にどうすることもできないのでしょうか?

転校生はずっと、絶望的な気分で生きていくしかないのでしょうか?

…その答えはNOです。

 

暗い話が続いてしまったので(笑)、ここからは、私がどうやって転校生という辛い体験を乗り越えたかを、お話ししていきたいと思っています。

 

未来は、自分で選べる。何が何でも掴み取ろう。

子供というのは、親に守られている存在だからこそ、住む場所を選ぶことはできない。

そう書きましたが、住む場所は変えられなくても、自分の意志で変えられるものがあります。

それは、どんな環境に自分を置くか、ということです。

 

私に転機が訪れたのは中3に上がるころ。当時の担任の先生が、文集係だった私に先生の母校の高校の文集をサンプルとして持ってきて見せてくれたのです。

その先生の母校は県で有数の進学校でした。

当時の私にはとてもはるか遠いよその世界といった印象だったのですが、この文集を見てときめきました。

男子も女子もとっても仲がよさそうで、文集に書いてあることが品があって、ユーモアもあって、知的なんです。

「なんて素敵な雰囲気なんだろう…」白黒の、ただの冊子の世界に私は一気に魅了されてしまいました。

 

そして私は、無謀にもこの高校に行くことを決めました。決心したんですね。

中3になると親に塾に入れてもらい、猛勉強を開始しました。

当時の模試の判定は確かC。学校の先生方にも、何度も「受かりっこないから考えなおした方がいい」と言われました。そう言われれば言われるほど燃え上がった私はますます必死で勉強しました。

あの一年は、私の人生の中でも一番頑張った年だと思います。(遠い目…)

 

…こうして、私は見事合格を勝ち取ることができました。合格発表で自分の番号を見た時のあの感動は、今でも忘れません。

ちなみに、通っていた中学校からその高校へ志願したのは私ひとりだったので、当然中学校からその高校へ進学したのも私ひとりです。

こうして、私は新しい世界を自分で掴み取ることができました。

 

実際に高校は本当に素晴らしいところでした。そこでたくさんの素晴らしい友人にも恵まれました。

高校生活があったから、私はこの土地が、今でも大好きです。

…話は戻ります。

私は何も、自分の高校受験を自慢したかったわけではないんです。

私の場合はたまたま勉強だったけれど、例えばスポーツとか、吹奏楽とか。高校によって特色は様々にあると思います。

また高校だけでなく、例えばダンスや歌など、習い事でもよいのです。ぜひ自分の好きなこと・得意なことが思う存分にできる環境に自分を置くことを、妥協しないでほしいのです。

 

新しい中学校がつらくて「前の学校に戻りたい」と思ったことは私も数えきれないほどありました。でもそれは物理的に不可能です。

ただ、「これから自分が身をおく環境(高校や、学校以外の環境)」を自分で選ぶことはできます。

 

どうか、選びとってほしい。大好きなこと、自分が輝ける場所。

そこを妥協しないことが、宿命にも打ち勝つ方法だと思っています。

 

実は、過去を変えることだってできる。

こうして私は、憧れの高校に通うことができたわけですが。

中学校の頃のこの思い出は、ずーーっと何年も私の中でしこりとして残ったままでした。

不良は嫌だったけれど、仲良しの友達もいたし、それなりに楽しんではいたのです。

それでも、大学生になってからでさえも、学生服の男子の集団を見ると心拍数が上がってしまう自分がいました。やっぱり、トラウマはなかなか手ごわかったのです。

 

それからまた10年ほど経ち、去年のこと。

 

心の学びをする中で、私は「過去の自分を救いに行く」ということを、してみようと思ったのです。

どういうことかというと、過去の自分の「解釈」を再検証して、構築するということです。

今の私なら、大丈夫。

当時の傷ついた自分を救いにいけるはず。

表向きは旅行ということで夫についてきてもらい、裏テーマとして私はその土地で過去の傷と向き合ってみることにしました。

 

当時住んでいた地域を通り、その土地の自然に触れて、自分と対話してみました。

海がとてもきれいな海岸で水に足をつけながら瞑想をして、当時の自分の想いに意識を集中させます。

 

今迄蓋をしていた感情ボックスを開いて、感情を味わいました。

寂しさ、辛さ、悲しさ、悔しさ、みじめさ、プライド、怒り。

いろんな想いが巡って、一気に涙が溢れてきました。

 

ひとしきり感じきったら、そこにいたのは、一生懸命生きていた健気な当時の私でした。

そして、不良少年だって、あの当時はまだまだ中学生のかわいい男の子。ただ「ちょっと面白かった」、程度のことだったんだと、「なーーんにも考えていなかった」んだと、わかってしまいました。

何より、彼らも何か寂しい思いをしていたのかもしれません。

はけ口が、なかったのかもしれません。

私は勝手に傷ついていたけれど、彼らにそんな意識はなかったのでしょう。

そんなふうに思える自分がいたのです。

 

私は、「被害者だった私」をやめる。そう決めました。

親にすべてを委ねないと生きていけなかった子供の私ではもうないのです。

もう今は自分で自分の人生を選べるし、実際に選んで歩んできたこれまでの道は、本当に素晴らしかった。

その証拠に、今がとっても幸せ。

そう思うと、今生きてここに戻ってこれたことが、どれだけありがたくて幸せなことなのかということを、改めて実感することができ、今度は「ありがたい」という気持ちで涙があふれてきました。

 

なかったことにして蓋をすることはできたと思います。

だけど、もう一度傷を見る痛みを伴ったとしても、過去を自分で救いに行ってあげたかった。

そこを通過することで、私は、また前に進めると思ったし、実際にそれができてしまいました。

 

苦しみの最中にいる時は、どうしても世界が狭くなってしまいます。

八方ふさがりで、絶望的になることもあるでしょう。

だけれども、いつだって、望む未来を選ぶことはできるし、たとえ過去が苦しいものであったとしても後からそれを塗り替えることだってできるのです。

だから、過去のせいにしないで、未来に絶望しないで、いつだって「今の自分の幸せを」を考えて生きていきたいなと、思うのです。

 

***

以上、転校生について思うことをつらつらと書いてみました。

もちろん、転校生を経験したことで、得られた素晴らしい体験もたくさんあります。

全国各地に友達ができたこと。全国各地のおいしいものが食べられたこと。グループの中の「抑えておくべき人」を一瞬で見極めるスキルを身に着けたこと。笑 家族の絆が深まったこと。

せっかくなら、たった一度きりの人生、良い面にも目をむけて楽しく生きていきたいものですね。

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