夫の祖母が天国へ旅立ち、本日お見送りをしてきました。
そこで垣間見た義祖父母の夫婦愛について、書き残しておきます。
(以下義祖父=祖父、義祖母=祖母、と書きます。)
祖母の両親は鹿児島出身だけれども実業家で満州に渡り、そこで祖母は生まれた。
そして戦時中満州鉄道で働いていた祖父と結婚。終戦後、祖父の家業を継ぐ形で鹿児島へ渡った。
2人ともとてもエネルギッシュで、旅行が大好きだった。
老後は祖母は書道の先生、祖父は詩吟の先生をしていた。
そんな祖父も96歳になり、この頃は入退院を繰り返していた。
祖母も92歳だが、毎日毎日祖父を見舞いに行っていた。
亡くなる前日も、祖母はいつも通り近所の人のところへ顔を出すなど、普通の生活をしていた。
だから祖母の訃報は本当に突然のことで、みんな驚いた。
天寿を全うしたのだ。
夫と私はすぐ鹿児島へ向かい、でき得る限り手伝いを申し出た。
病院でほぼ寝たきりだった祖父も葬儀に参列したいということで、当日私たちが介護車で迎えに行き、車椅子で参列することになった。
夫と病院に迎えに行くと、看護師さんやヘルパーさんに喪服に着替えさせてもらっている祖父がいた。
看護師さんに「誰が迎えに来てくれたの?」と聞かれ、祖父は「これは息子だ」(※孫です。笑)と答えたり、着替えの途中で、看護師さんに掴まるとドサクサにまぎれてお尻をさわさわしたりと和ませてくれた。笑
着替えながら、「(これから自分は)どこに行くのけ?」と聞かれたけど、どれくらい祖父が理解しているのか分からなかったのでどう答えて良いか分からず、誰も答えることができなかった。
けれど実際に葬儀場に着き、入り口で祖母の遺影を見た祖父はすぐに状況を察したようで、声にならない声を出しながら両手で顔を覆った。
そして祖父は棺の中の祖母の顔を見るのを、顔を歪めながら拒否した。
「こんな花に飾られた姿を見たくなか」と。
葬儀の間も、「世界一の嫁さんだった」と、「彼女のいない世界なんか、生きたくなか!」と言い、それを聞いて皆涙した。
その一方で私は、祖父はなんてオシャレなのだろうと思った。
もちろん祖父の上記のセリフは本心から出たものであろう。2人の仲の良さはみんな認めるところだった。
ただ私の勘としては、祖父の一連の動作やセリフの3割くらいは〝どう見られているか〝をよくわかっていての、参列者へのサービスも含まれているように見えた。
96歳と言う歳の日本の男性を思い浮かべると、私などは亭主関白で言葉が少なめ・寡黙で不器用な男性像を思い浮かべてしまう。
ところが96歳で、92歳の妻の死に直面しときに「彼女のいない世界なんか生きたくなか!」と言う言葉が出る。
本人は辛いだろうけれどその言葉が本当にかっこいいし、お洒落だと思うのだ。
言葉はその人を表すものだと、と改めて思った。
そのことを夫に話すと、「確かに思い起こしてみれば、祖父はそんなところがある人だった。最近は年を取ってしまって忘れていたけれど、祖父らしい言動だ」と言った。
祖父はきっととてもサービス精神があり、自分のプロデュースもできる、楽しいことが大好きな人なんだろうなと思う。
たぶんエニアグラムタイプ7か8。(勝手に。笑)
そしてそんな祖父を支えながら生きてきた祖母もまた、楽しい人生を歩んだのだろう。
祖母は、とても面倒見がよく情熱の人だった。
夫が私と結婚することが決まり、挨拶に行ったところ本当に喜んでくれ、それは可愛がってもらったように思う。
祖母は手紙を書くのも大好きだったので、私たちは何度も文通をした。
たまに私がお返事をさぼっていると、「毎日返事はまだかまだかと家の郵便受けを覗き込んでいる」と夫の両親から電話があり、慌てて返事を書いたものだった。(^^;)
最近は祖母も認知症が進み、お手紙が届くことはなくなってしまったが、2年ほど文通できたのは良い思い出だ。
それにしても、いつも元気な祖母があっという間に棺に納められ、骨になった姿を目の当たりにして、改めて体というのはこの世の仮の入れ物に過ぎないのだと痛感した。
死は全ての終わりではなく、魂のふるさとへ帰ること。
だから祖母は今日めでたくこの世を卒業したのだ。
これからは、もっと大きな世界で大きな存在となって私たちを見守ってくれるはずだ。少なくとも私はもうすでにその温かさをじんわりと感じていて、手を合わせるたびに祖母の笑顔が浮かんでくる。
今ここで生きていること。
この世に生きているからこそ得られる全ての苦しみも、悲しみも、切なさも、嬉しさも、楽しさも、喜びも、感動も…すべての愛を、感じ切りながら生きていきたい。
おばあちゃん、長い間お疲れ様でした。
私を家族の一員として受け入れてくれ、可愛がってくれて、ありがとうございました。