ちぇこです。
このところ、しんどい日々を過ごしております。
私は、ブログにせよSNSにせよ、発信するときには明るくて楽しいメッセージを乗っけて世界に届けたいと思っていて、
だからこういうブログを書くことにはかなり抵抗もあり、書いて意味があるのか?と自問自答してしまうのですが、
たまには正直にしんどいと、ただしんどいという思いも発信してみようかなと思います。
前回の記事に書いたとおり、
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心のことを学んだ「LPL養成講座」の認定セラピスト・カウンセラーの試験に挑戦することにしました。
挑戦することを決めるまでが大変だったけれど、決めてからは……やっぱりもっとしんどくて仕方がない。
涙の量も3倍になりました。
セッションの練習をする度に、それを録音して聞き直す度に、自分の浅さが嫌になるし、
自分が見ていかないといけないところが絶え間なく浮上して、途方に暮れています。
私は今まで何をやっていたんだろう?と。
そんな中で参加した講師あけみちゃんによるスーパーバイズではカウンセラーをさせて頂き、たくさんの学びを得ました。
自分はこれまでの人生で人にあえて言うほどの壮絶な体験もないし、虐待されたわけでもないし、育児放棄をされたわけでもない。
だから、私の悩みや傷、感じていた苦しみなんて小さな小さなもの。大したことはない。問題ない。ずっとそう思っていました。
それなのになんで、こんなにも生きづらかったのか。
それは、起きた出来事ではなく、「わたしがどう感じていたか」を大切にしていなかったからでした。
この数年で私なりに取り組んできたと思っていたけど、全然浅かった。
「わたしが感じていた」苦しみや悲しみを、「わたしが」全然認めてあげられていなかった。
小さな頃からあんなに苦しかったのに、悲しかったのに、世界に絶望していたのに、ちっとも自分に寄り添ってあげられていなかった。
それに、やっと、やっと、やっと気づいたのです。
おそーーーい!おそすぎるよ、自分!!!
ASVでそんな気づきを得て、それから私が世界に対してどう思っていたのか、何がそんなに悲しかったのか。思いを巡らせることになりました。
▲日々の私の心の動きと反応パターンを観察するノート。
そうして迎えた冬PLフォーラムというイベントで、今度はクライアントをさせて頂けることに。
とてもとても素敵なセッションをして頂けて、カウンセラーの存在を感じるだけで涙がぼろぼろ出てきました。
この人にはわかってもらえる。
多くの言葉を介さなくても、強くそう思えたら、どんどん自分を開示していくことができました。
そこで出てきたのは、私のこれまで感じてきた世界観でした。
例えば、
ある時ある仲間が、セッションの練習(自主トレ)で「カウンセラーをやるんだ!」と張り切っていたのに、その日はたまたまカウンセラーとして指名されずモデレーターをして、2本目は心が折れたのでやりたくもなかったクライアントをやったということを聞いた時。強い痛みを伴って私が泣いてしまいました。
その人の悲しさを代理で受けてしまったということもあるかもしれないし、その人が可愛そうだという傲慢な気持ちもあったと思います。
でも私が一番に感じたのは、その場の誰も悪くないということ。みんな、誰にカウンセラーをやってもらいたいとか、自分がカウンセラーをやりたいとか、ニーズがそれぞれあります。だから、誰も悪くない。だけど、誰も悪くないのに、誰かが人知れず傷ついているという現実がある。
それを思うと、私はこの世界にやるせなさ、切なさを強く感じてしまうのです。
どこにこの苦しさをぶつけたらいいかわからない。
これは本当に物心ついた時からあるパターンで、例えばお祭りに行ったときに父が嬉しそうに買った焼き鳥が、たまたま向こうから来た人とぶつかって全部落ちてしまって父が悲しそうにしていた時。誰も悪くないけど、悲しくて悲しくて、夜の暗闇にそのまま自分が吸い込まれていく感覚になったこと。
そして、こういうふうに感じるのって、自分がおかしいんだと思ってしまったこと。
転校生の人生だったので、新しい学校に移るたびに、他の転校生はすんなり慣れていたのに、私はいつもいつもなじむのに時間がかかったこと。
自分だけ、いつも異世界からやってきたような感覚で、いつも安心感がなかったこと。
どの土地に行っても、みんな無神経に思えたこと。
テレビのドッキリ番組を見て、後でネタバレをするとわかっていても、人が焦ったり困っている姿を視聴者が喜んで見てしかも爆笑したりしているのが、信じられなくて、人間ってなんてむごい生き物なんだって思って絶望したけど、そう思う自分が嫌だったこと。
小学校の時に「火垂るの墓」を学校で見せられて、あまりにも辛くて、これを平気で見せてその後は普通に楽しく次の授業をする先生たちはなんて恐ろしい存在なんだと思ったこと。
人間が怖くて怖くて仕方ないこと。
誰かを傷つけようとする人が大嫌いなこと。
でも本当は傷つけたくてそうしているわけじゃないことも伝わってくること。
だからなおのこと、誰も悪くないのに誰かが傷ついてしまうこの世界が嫌だった。
人間が怖いなんて言ったら弱くて扱いづらくて面倒くさい奴だと思われると思って封印してきたこと。
そして実際に私自身が、暗い発言をする人を敬遠して見下してきたこと。
これまで言語化できなかったけれど、たくさんのエピソードを思い出しました。
だからこの世界が嫌で仕方なくて、いつも消えたいと思いながらも、消えちゃいけないと踏ん張ってきた。そしてここにいるしかないこともわかっていたから、私がとった方法が「自分を麻痺させること」そして「いい人のふりをすること」でした。
いつも自分の「本当」から遠のいているから、自分で自分がわからない人生だったのです。
とりあえず、いい人のふりをしていたら、叩かれることもありません。
でも自分の本当の気持ち、何が欲しいのか、何が嫌なのかがわからない。
今回、これらは小さな私が身につけてしまった世界への誤解であり、肉体がある以上、誰かが傷つくのは仕方のないことであり、傷つくかどうかは本人が握っていることであり、私がコントロールできるものではないことも、改めてわかりました。
セッションで、これまでの人生はずっと「自分が自分じゃなかった」という言葉を言った時に、涙が溢れて止まりませんでした。
その後、参加した菊池かおりさんと佐倉亜希子さんのGLSVというスーパーバイズの講座で、
さらに私に起きていたことをエネルギーのレベルで解説してくださり、自分に対する理解が深まりました。
私は圧倒的にバウンダリーが引けないこと。それはもうエネルギーレベルで。
相手に同化しすぎて、相手と一体化してしまうこと。
自分の存在を「消す」ことが安全策なので、人と一緒にいる時に注目されるのが何より苦痛なこと。
注目されると自分を麻痺させ、そして同時に意識が抜けてしまうこと。
人といても、すぐにどこかへ意識が飛んでしまうこと。
これまでの自分のからくりがどんどん明確になってきて、
苦しいけれど、やっと、自分を少しずつ分かってあげられるようになってきました。
だから、綺麗事じゃなくて、かっこつけでもなくて、認定試験の合否はどっちでも良くなっています。
挑戦する道のりが、そして挑戦した後の人生がとても大事だと同じ道を先ゆく先輩方に言われるけれど、本当にそのとおりなんだなと思います。
私は正直カウンセラーセラピストになりたいのかさえ、わかっていません。
なんでこんな険しい道を選んだんだろう?(笑)
でも今、私は人生で初めて、「自分に」「自分のためだけに」一生懸命になっている、という実感があります。
だからカウンセラー・セラピストの試験を受けるために勉強をしているのではなくて、
自分を深く知って、自分の苦しみ・悲しみを自分でわかってあげて、救いに行ってあげるために、
試験という名前のイベントを使わせてもらっている、という感覚があります。うん、そっちのほうがしっくりくる。
クライアントさんのためじゃなくて、自分のためにやっている。それは間違いない。
しんどいけれど。
でも、こうやって私が今向き合えているのは、いつもお世話になり、見守ってくれる大切な仲間がいるからだということも痛感しています。
どんな自分も、温かな眼差しで見つめてくれるみんなの存在がなかったら、ここまで来れなかった。
そして講師あけみちゃんは、どんなときも自分の感情を大切に感じきっている姿と、自分を大切にする姿を私に見せてくれます。
私もそんなふうになりたい。
私はこれからの私の人生にもっとど真ん中で進んでいきたい。
すべてのことが、ありがたいなあ。
本当にありがたい。
しんどいけれど、引き続き頑張ってみようと思います。
しんどいけど。(←しつこい。笑)
▲4-5歳のころ住んでいた石垣島(これは与那国かな)にて。